名古屋教育水族館 その1
(名古屋市港区)

-山田才吉-
明治期、岐阜出身の怪物実業家「山田才吉」は守口大根など漬物の製造・販売で財を成し、それを元手にこの地方では初めてとなる缶詰製造工場の建設、東邦瓦斯の前身となる愛知瓦斯への経営参画、地域開発参入など次々と事業を広げていった。
今回の主役である「名古屋港水族館」もそうした事業の一つとして明治43年に産声をあげた。

才吉は料理人出身ということもあり、生涯に数々の料亭を経営した。その中で初期に手がけた大規模旅館が東陽館である。明治28年、現在の中区栄に開業した東陽館は、その規模と豪華さで名士の会合や宴会にも多く用いられ、実業家としての才吉の名を高めていった。しかしこの巨大料亭は明治36年8月に失火から全焼してしまう。
会心の出来であった東陽館の焼失は才吉にも大きな精神的ダメージを与えたようであったが、名古屋での第十回関西府県聯合共進会(県で持ちまわる博覧会)開催が決定すると、才吉はこれに同調して新たな地域開発事業を計画した。
後に愛知の三大旅館の一つとして数えられる「南陽館」、県内初の本格的水族館「名古屋教育水族館」はこうしてその胎動をはじめたのである。

才吉は自分の缶詰工場のあった東築地五号地(現在の名古屋市港区)の一部を今で言うレジャースポットとして開発しようと思い立った。しかしネックとなるのは東築地の交通の便の悪さであった。このままではせっかくの新施設への集客もままならない。才吉は明治41年、当時の名古屋の中心街の一つであった熱田と東築地の間を結ぶ鉄道を施設するため「熱田電気軌道株式会社」を設立、鉄道省の認可を得ると、2年後の明治43年4月に開業した。同年南陽館に先立ち、名古屋教育水族館が開館した。

-名古屋教育水族館-
東築地五号地北側に位置し、敷地面積九千余坪、教会のようなモダン洋風三階建の本館をはじめ、パノラマ式水槽を持つ八角形の龍宮館、剥製などを展示した参考館等に、鯉や金魚をはじめとする魚類約1,200種、鳥類(インコ・クジャク等)、爬虫類(ワニ等)、哺乳類(水牛・猿等)、その他アルコール漬の標本や海産物などが展示されていた。「水族館」という名はついているが、ラグーン風庭園や遊園地を併設しており、水族館だけには留まらない一大レジャー施設であった。
入場料は大人10銭、子供5銭、精進川(現在の新堀川)記念橋(現在の中区)からの観光船による往復込で大人20銭、子供12銭であった。水族館単体だけでなく、周辺の観光などとセットにして販売するあたりは実業家らしい手法であった。
入場者は初年度は45万人、その後はコンスタントに年間15万人ほどであった。

-南陽館-
東築地五号地の最南端に建設が進められた南陽館は木造五階建で客室数は42を数え、120畳を超える大広間をそなえていた。埋め立ても現在ほど進んでおらず、美しい景色が眺められたという。

-崩壊・再建-
大正元年9月22日、台風の高潮によって海際近くにあった完成間近の南陽館が崩壊、北側にあった水族館も流出した貯木場からの流木によって崩壊してしまった。才吉は懲りることなく南陽館を三階建と規模縮小した上で同地に再建した。さらに水族館も木造平屋建に規模縮小して南陽館敷地内に移転再建した。
才吉の東築地に寄せる思いは強く、南陽館近くに大仏の建立を計画して台座までは造られたが、東築地周辺の埋め立てが進んでしまっており、大仏建立の立地にそぐわないとして現在の東海市につくった料亭「聚楽園」の敷地内への建立となった。

-閉館-
規模は縮小されたとはいえ、崩壊前と同じく1,200種類を超える魚類の展示を行っていた名古屋教育水族館であるが、周辺海域の水質汚染などにより、昭和10年閉館されることとなった(南陽館も同様)。飼育されていた多数の魚類は翌年知多半島で開館した新舞子水族館に移譲された。

才吉はその2年後の昭和12年に没。
昭和20年、戦災で焼失した東築地尋常小学校が水族館跡に移転再建され、現在に至っている。

【地図・資料提供:名古屋港管理組合
【地図・資料提供:Tさん

-当時の地図-
-開館当初の地図-
明治末期の地図。後に高潮で崩壊する前の時期のもの。
鉄道の通る道から水族館まで一直線に道が伸びているのが見られ、水族館の南西側に南陽館が建てられている。

写真左下は現在の名古屋港。現在では国内有数の港であるが、当時は小さな突堤がある程度だった。
(マウスで画像説明)

-崩壊・再建後の地図-
再建後、営業終了近い時期(昭和10年頃?)の地図。
水族館は崩壊後、当初建てられていた場所に再建されず、規模を縮小して南陽館があった場所に移転していた。

熱田電気軌道は大正8年に名古屋電気軌道に吸収合併されている。
(マウスで画像説明)

-閉館後の地図-
水族館閉館後の昭和12年の地図。
営業は行っていないが、建造物はまだ残存していた様子が伺える。(特に凸型の本館と思われる建物)

跡地北側に「南陽館前」の駅が見られるが、3年後の昭和15年に不採算路線として廃止された。


詳しい地図で見る
-現在の地図-
上の地図とほぼ同位置を示す現在の地図。
水族館・南陽館跡は東築地小学校となっているが、地形や主要道路は当時とそれほど大きな変化は見られない。


少々見難いが明治期と現在の地図を重ね合わせたもの。
資料によっては崩壊前の水族館の位置が国道23号線竜宮IC南西と記載されているものもあったが、二つの地図を縮尺などではなく地形で重ね合わせてみると、竜宮IC北西(厳密には北)となる。正しいかどうかは分からないが、自分としては北西側だと思っている。

Tさんからいただいた東築地海水浴場の絵葉書。右奥にはしごでおりる人々が写っている。

現状からは想像もできないが、曾祖母が生まれたほんの100年ほど前の事。

当時の写真
名古屋港教育水族館。
洋風三階建本館(写真)には1200種類の魚類・鳥類・哺乳類が飼育されていた。その他、洋風八角形にパノラマ式の水槽を置いた龍宮館、剥製を展示した参考館もあった。
通路や木の様子からすると開館前に撮影されたものと思われる。

写っている門が現在の竜宮町の名の元になっている「龍宮門」か?

ほぼ同じ角度から撮影された本館。
おそらく開館間もない時期のものと思われる。

ほぼ同じ角度から撮影された本館。
着物姿・丸髷の女性や帽子をかぶった男性の姿など、明治後期の風俗が見られる。

上の写真を引いたもの。
左手に長栄軒(パン屋)の箱車が写っている。
長栄軒は明治42年から箱車にちぎりパンを載せて売り歩いていたとのこと。
「ロシアパン、フランスパン」の文字が見える。

(写真提供 Tさん)

大正4年の水族館。
門が無くなっており、屋上ドームの間の装飾も変わっている。

(写真提供 Tさん)

水族館庭園。
庭園の池では水牛などを間近に見ることができた。敷地は9,000坪を超える広大なものであった。

水族館庭園。
写真左手奥が本館、右手が龍宮館。
写真中央に水族館の記念ハンコが押されている。

ほぼ同じ角度から撮影された写真。

水族館庭園全景。
中央奥に見える八角形の建物が龍宮館。水族館の他、広い庭園や遊園地なども併設されており、開館1年目は45万人の人を集めた。

画質は落ちるが水族館庭園全景。
写真中央には橋が確認できる。

Tさんからいただいた当時の絵葉書。

建造直後と思われる竜宮館が写っている。上の全景写真では大きく見えるが、近くだと意外に小さく見える。

龍宮館の絵葉書。
左下の龍宮館の写真と共に、館内に描かれていた絵画も紹介されている。(地曳網バージョン)。

(写真提供 Tさん)

龍宮館の絵葉書
こちらは漁バージョンの絵が紹介されている。

龍宮館の内部写真。
水槽上部に絵葉書で紹介されている絵画が確認できる。

(写真提供 Tさん)

芸達者なアシカは時代を越えて人気者だったらしい。

こちらはワニ館。
温度管理とかどうしていたのだろうか。

明治43年8月20日 新愛知新聞掲載の龍宮館の写真。建設当初、入口が鍵穴状だった事が分かる。

どうでもいいが、右側の「女の一念 遠州の幽霊騒ぎ」の記事が非常に気になる。

(写真提供 Tさん)

南陽館
-再建後の南陽館-
崩壊前は木造五階建の建物が建てられていた。当時としては高層建築であり、この料亭の売り物の一つであったが、大正元年9月22日の高潮で建物は崩壊した。その後木造三階建と規模を縮小して再建された。

崩壊前の写真は残されておらず、当時の新聞記事などでしかその様子を知る術はない。

再建後の南陽館正門。

南陽館の絵葉書。
南側からの撮影と思われる。

中央の建物は南陽館、左側ドーム状の建物は共進会(第十回関西府県聯合共進会)のアサヒビール館で東築地に移築されたものだとのこと。

(写真提供 Tさん)

同時期の絵葉書。
アサヒビール館メインとなっている。
共済会が終了した後、建物の引き取り先はほとんどなかったようだが、Tさんがアサヒビールに問い合わせたところ、ビール館が東築地に移築された記録はなかったそうだ。

(写真提供 Tさん)

-崩壊・再建後-
再建後の水族館/南陽館を北側から撮影した当時の写真。先端左手前に見えるのが水族館、道路に面して続く建物群が南陽館。

再建後の水族館の写真は確認できなかった。

名古屋海洋博物館に展示されていた名古屋港周辺のジオラマを上の写真同地点で撮影。

熱田電気軌道 -南陽館/水族館の客を運ぶために敷かれた鉄道-

「貯木池及東開運河全景」より。
東築地五号地にあった貯木場を描いた図。大正元年、高潮によって流出したこの貯木場の材木により水族館が崩壊している。

手前に描かれているのが熱田電気軌道。交通アクセスの悪い東築地に建設する南陽館・名古屋教育水族館の入場客を確保するため山田才吉は明治41年に「熱田電気軌道株式会社」を設立、明治43年4月12日に神戸橋(内田橋)〜東築地間で開業。
これは名古屋市営の市電が開業する(大正11)より10年以上前のことであった。路線は後に伝馬町〜南陽館前まで延長されている。
しかし水族館が再建される前年の大正8年に熱田電気軌道は名古屋電気鉄道に合併され、昭和15年には赤字路線として路線自体が廃止された。

右手が南陽館側、左手が熱田側。軌道は複線となっている。車掌から注意されたにも関わらず窓から顔を出し、線路の間に建てられた架線の柱に頭をぶつけて死んだ人もいたらしい。


Tさんから提供いただいた熱田電気軌道の遺構。

地形的に当時の様子をイメージするのは割と簡単であるが、遺構が残っているとは思いもよらなかっただけに感動。

肝心の遺構がこれ、軌道の敷石。
Tさん、ありがとうございました。


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